江戸釣百物語 長辻象平 将軍から庶民まで


まえがき

武士から始まった遊びの釣り
江戸時代になるまでは、仏教の教えにより、漁師以外の釣りはあまり好まれなかったようである。当時の寺院の力は強く、禁止だったと言った方が良いらしい。
中国の詩文や絵画が輸入されるようになった江戸時代からは、やや解放され釣りが行われるようになっていったようだ。

中国から伝来した漢方薬の梱包に使われていた
テグスを釣りに応用したのが、テグス伝来の地、大阪であったという。そしてそれを売る商売も始めたようである。さすが大阪商人。

河の水が濁っていた中国では、この透明のテグスを釣り糸に使おうという発想がなかったという。
日本は、世界の釣りに貢献している。




概要

第1章 怪談

 江戸時代の釣りの伝説がいろいろあるらしいが、怪談というのはどういうことかといえば、結局釣り人が亡くなった原因を、怪魚やら虫やらのせいにしているような感じであるが、まあひとつひとつの話は面白い。釣り人を水中に引き込むオオグモ、琵琶湖の大鯰、千曲川の大ガマガエル、カツオ釣り漁船を襲うジンベエザメなどなど。
 現代なら馬鹿にする方も多いかもしれないが、当時は信心深く、人々も純粋で本気であったろうと推察される。

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第2章 武士の釣り

 戦国の武士たちも、戦の合間に川釣りなどに勤しんだようである。鱸二十匹など、ちょっと凄すぎではなかろうか。釣りというより漁かも知れない。
 鮎釣りは「鮎数千二百」とか、「うぐい二百余り」とか、ものすごい採り方である、そしてハゼ釣り、クロダイ、記録は「魚釣覚」に記載されているとのこと。
 釣り旗本、津軽采女政たけ(つがるうねめまさたけ)は、立派な「何羨録(かせんろく)」なる三巻の大著を残した。
 また、徳川綱吉の生類憐みの令は、釣りも含んでおり、武士から釣りの楽しみを奪っていた。もちろん庶民も。魚が食べられなかったわけではないが。漁師だけ許可されていたらしい。

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第3章 まちの人々、女性の釣り

 江戸時代の後期には、女性もたちも男性に混じって大いに釣りを楽しんだ、と書いてある。知らなかったとはいえ、驚きである。
 また、浜御殿なるところで、釣台なども設けられ、女性も和服で釣りをしている浮世絵などあれば、その事実は疑いようもない。すでに海釣り公園の原型があるではないか。すばらしい。
 そして、「御釣殿につりたれ給ふに、いをもあまた得給ふければ、興にいらせ給ひ、いましばしとおぼし給えど日もたけぬとて昼の御ものきこしめし・・・」とのことで、あまりに面白いので、ランチの時間だが、もうちょっとやりたいと女性が言うのである。
 これは、わたしも身内で体験済みである。

 また、当時の道具と現代の道具の違いから、アドバイス内容も変わる点が面白い。
 たとえば、リールが無い当時は、小潮の時が釣りやすいとなる。もちろん大潮の方が大物が釣れることも分かっているのだが上級者向けのようだ。
 
針も根掛かりしても、針を失わない様、針自体が柔らかくて、根掛かったら引っ張れば、伸びて回収できるという具合である。この工夫はすばらしい。でも、大物には向かない。
 江戸時代、生きた魚はウオで、死んだ魚は、サカナと呼んだらしい。

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第4章 道具あれこれ

 江戸時代の「何羨録」には、二十一種類のオモリの絵が残されている。日本人はまめである。竿や針、ウキに天秤まですでに江戸時代に開発されている。
 天秤と錘とウキが一体になった仕掛けがあり、このアイデアは、底取りをしなくていいという優れものである。
中央に吊り下げられた錘が水底に着くと、天秤はウキの浮力によって、海底からの錘の糸の長さだけ持ち上げられるから、その長さと両天秤の糸と針の長さを調節しておけば、針先は必ず底から何センチに固定できるはずである。実際には潮流にも依るし、その両天秤仕掛けに魚が近づくかどうかという問題はあるが、ハゼが釣れていたなら問題なしであろうと思われる。
 「釣客伝」によれば、
「細かき当たりにても大魚あり」とある。逆も書いてあり、当たりの大小で釣れた魚の大小は分からないということだ。

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第5章 江戸のさかな

 江戸湾に注ぐ隅田川でのハゼ釣りを楽しんだようだ。
 「江都の士民、好事、遊び好きの者の扁舟に棹さし、蓑笠を擁し、名酒を載せて、竿を横たへ、糸を垂れ、競いて相釣る。これ江上の閑涼、忘世の楽しみ」とのこと、
酒を飲んで、釣りを楽しんでいたのね、江戸の武士。羨ましきことなり。
 また、タナゴ釣りのエサとしてうどん(うんどん)も使われた。
 「たなご。うんどんにてつくり、くひよし」(江戸海川録)
 ふぐを食べることができたのは庶民だけ。大名がふぐにあたって死んだらえらいことだからだそうだ。
 鮎釣りもさかん。友釣りは、1820年ごろの発明らしい。鮎は餌釣りが困難であるから、このような釣り方が発明されたのだろう。
 鯰(なまず)という漢字は、和製とのこと。本来の漢字は「鮎」とのこと。まちがったそうだ。たしかに沼の底をひとり占めするような感じかもしれない。鯰に充てる漢字が無くなって、この字を作り込んだと。

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第6章 幕末の釣り

 文武両道ならぬ、釣武両道とはこれいかに。この時代の武士も釣りが大好きだった様子。東北の庄内藩の武士たちは、「名竿は名刀より得難し」と言っていたと言う。
 また、懐のあまり暖かくない幕臣が五月の木場で、テナガエビを五、六本の竿で釣る方法なども紹介されている。
 その幕臣山本政恒が桜田門外の変のとき、江戸城に勤務しており、井伊家の家来がなぜ浪士に簡単にやられたのかという貴重な証言を『政恒一代記』に残していることも書かれており、気になる方は本書か一代記を読んでみるといい。
 その政恒さん、いまのディズニーランドらへんで、サヨリを網で取っていたらしい。
 また、
舟釣りでのクロダイの釣り方も記してあるが、仕掛け多少違うが、魚とのやりとりは現代のものと全く同じで、その研究心に感心するばかりである。
 そして、隅田川下流での納涼船に芸者と料理人を乗せて、釣りを楽しむ図など見れば、昔の人も今以上に楽しんでいたのだなと分かり、嬉しいやら羨ましいやら。
 釣った魚を、舟の上で料理させ、芸者さんと酒を飲むのである。
お金持ちは、いつの時代も最先端であるなあ。
 最後の将軍、徳川慶喜は実弟と、明治23年から37年の15年間で、約400回釣行したというから、ひと月に2回以上は釣行していたことになり、よく釣れる季節に限れば、その2倍くらいは行っていたことになるのであろうか。これは弟の昭武の『川漁拓』という釣り日記に残されている。
 当時、日本の竹竿は世界で群を抜いており、各国の人が欲しがったという話を聞けば、
日本の釣り文化が如何に素晴らしいかが分かって嬉しい限りである。

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長辻象平さんのプロフィール(本書の紹介文より)

1948年、鹿児島県出身。科学ジャーナリスト、産経新聞論説委員。京都大学農学部卒業。

著者の作品(本書の紹介文より)

『釣魚をめぐる博物誌』『江戸釣魚大全』『江戸の釣り』。時代小説に『みずすまし』『あめんぼう』『闇の釣人』など。

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